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ドクターKの独りごと 2.「永遠」斎藤和己

かつてソフトバンクに斎藤和巳という選手がいた。入団当初から右肩腱板損傷を繰り返しながらも絶対的エースとして活躍し続けた投手である。彼の忘れられぬ姿がある。2006年10月、日本ハムとのプレーオフ第2ステージの札幌ドーム。

 

北海道民であれば誰もが日本ハムファンであると思う。2004年、ヒルマン監督率いる日本ハムファイターズが新庄選手とともに札幌にやってきた。「1、2、3、信(4)じられなーい!」「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」ヒルマン監督や新庄選手の1言1言に我々は大いに盛り上がり、そして「優勝」という夢をもった。そんなチャンスが移転3シーズン目に突如やってきた。2006年10月のプレーオフ。この試合に勝てば日ハムはパリーグ優勝だ!しかし勝負はそう簡単ではなかった。日本ハムのエース八木、ソフトバンクのエース斎藤、両者1点も許さない緊迫した試合展開。そんな9回裏、斎藤投手が一瞬乱れた。1人目の打者、森本選手に四球を与えてしまったのだ。しかしエース斎藤はその後の日ハム打線を抑え2アウトランナー1、2塁。あと1人というところで迎えたバッターは稲葉選手。ネクストバッターボックスには新庄選手。道民の誰もが息を殺してTVにかじりついたシーンであろう。稲葉選手への第2球。バットに当たった打球はセカンドベース右。セカンドフォースプレイか?!のように思えた。がしかし、セカンドベースへのトスがほんのわずかにそれてセーフ、その間に2塁から森本選手が生還!チームとしては25年ぶり、北海道にきてわずか3年で「優勝」という夢を、日本ハムは札幌ドーム、我々の目の前で実現したのだ!この年で引退を声明していた新庄選手をはじめ、みんな抱き合って泣いた。湧き上がる札幌ドーム。鳴りやまない歓喜の渦。長く厳しい冬が始まろうとする10月の北海道で、道産子が最も熱くなった1日だった。

 

喝采の渦のなか、そこだけがブラックホールになったかのようなマウンドの真ん中で、膝をつき崩れ落ちたまま立ち上がることができないソフトバンクのエース斎藤がいた。

 

2004年と2005年のレギュラーシーズン、勝率1位ながらプレーオフで敗退し、日本シリーズにでることができなかったソフトバンクは、2006年こそ!との思いでプレーオフに挑んだに違いない。7月、ソフトバンクの王貞治監督は胃を患い、チームから離れていた。何としても日本シリーズで優勝して王監督を胴上げしたい!ソフトバンクの選手の誰もがそう思ったであろう。中4日で先発に挑んだエース斎藤。彼の肩の状態を考えたチームドクターはまちがいなく反対したはずだ。でもおそらく彼は志願したのだろう、どうしても自分に投げさせてくれと。結果は上述のとおりだ。全身全霊で投げた2時間51分。斎藤投手のガラスの右肩はこの日、砕け散った。後に斎藤投手は当時の様子をこう振り返っている「あのサヨナラ負けから僕の時計は止まっています」。しかしここで敢えて言わせていただきたい。彼の肩はこの日から元には戻らなかったが、この日の斎藤投手の胸に響く姿は永遠に忘れない。

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医師は患者さんの病状説明で厳しい話をしなければならないときがある。自分の言葉の前と後とで病気が急に進行するわけではない。しかし患者さんの心境は話によって崖から突き落とされた気分となる。だから医師は患者さんが病気を受けとめ、前を向いて立ち上がれるよう、細心の注意を払って言葉を選ぶ。そしてここで敢えて言わせていただきたい。たとえ患者さんがどん底の心境となっても、それまでの患者さんの生き方や人格が否定されたわけではけっしてない。病気は深刻かもしれないが、患者さんの生きた軌跡を私は永遠に忘れない。

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余談ではあるが、斎藤投手は引退するまで背番号は「66」であった。お世話になった祖父の葬儀で背番号66のユニフォームを着せたことがあり、「背番号を変えたら天国から見ているじいちゃんが俺だと分からなくなる」ためだ。斎藤投手らしいエピソードだ。

 

                              旭川リハビリテーション病院副院長

ドクターKの独りごと 1. 「復活」上沢直之

2020年6月30日、日本ハムファイターズホームグラウンドである札幌ドームの開幕のマウンドには上沢直之投手が立っていた。左膝骨折から378日ぶりのマウンドにむかう彼の背中に、観客の声援はなかった。新型コロナの影響で無観客での試合となったからである。解説を除いては、テレビから聞こえる音はキャッチャーミットの音と審判の声だけだ。長いリハビリ生活を経て、1年ぶりにマウンドに立った上沢投手の気持ちはどのようなものであったであろうか?復活の初球は150㎞/hのストライクだった。第1球。キャッチャーミットの響き。「ストライーク!」アンパイヤ―の叫び…。初回はなんと3者連続三振…忘れることはないだろう。

 

上沢投手の復帰戦を見ていて、私は元巨人軍の吉村禎章を思っていた。1988年7月6日、札幌円山球場で起きた守備中の大けが。左ヒザ靭帯4本のうち3本を断裂し、更には腓骨神経も損傷。選手生命を脅かすどころか、日常生活ができるのか?というくらいの重症だった。2度の手術を経て1989年9月2日、読売ジャイアンツのホームグラウンドである東京ドーム対ヤクルト戦。7回裏二死三塁の場面で藤田監督から代打が告げられると、東京ドームは割れんばかりの大歓声に包まれた。423日ぶりの打席の結果は二塁ゴロ。それでも吉村選手は一塁へ全速力で走った。観客からの大きな拍手とスタンデイングオベーション。吉村選手も観客も、そしてTVをみている我々も歓喜で涙したものだ。

 

一方で…マウンドに向かう上沢投手の背中に声援はなかった。静まり返った球場。これがコロナ時代の野球観戦なのか…。上沢投手自身、少し寂しさも感じたようだが、それでも「マウンドで投げられたこと自体が本当に楽しかった」と試合後のインタビューでコメントしていた。

 

違和感だらけの野球中継であったが、見ているうちにあることに気が付いた。投手が投げる球種によってこれほどまでにミットの音が変わるのか!1球1球、審判はこんなにも大きな声でカウントを叫んでいるのか!西川選手が送りバントの構えをしたときのバッテリーの空気の変化。4番中田選手に一発がでれば勝ち越しという場面、マウンドに集まるソフトバンク選手らの緊張感。両チームダッグアウトからの声援…。こういった野球観戦もある…と。

 

彼らは今、野球をやって遊んでいるのではない。プロのスポーツ選手として闘っているのだ。この瞬間の最高のパーフォーマンスのために、なによりチームが勝つために、オフシーズンから日々汗を流してきているのだ。常に全力が故に怪我と隣り合わせの、そんな毎日がつらくないはずがない。ましてや怪我からの復帰に選手はどれほどの不安や苛立ちを感じることだろう…。吉村禎章も「現役の17年間、いろいろなことがあったが、振り返ってみたら面白かった」。そう、楽しいとか面白いというのは、困難を克服して振り返ってみてはじめて思うことなのだ。「マウンドで投げられたこと自体が本当に楽しかった」ともすれば軽いのりでとらえられがちな上沢投手のこの言葉が、実はどんなに深く重い言葉であったのかは、試合後のインタビューだけでは決してわかるまい。

 

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「お元気でしたか?」外来診察のはじめに私は患者さんに必ずこの言葉をかける。長いリハビリ期間を経て、がんばって、がんばって、それでももとのように体は動かない。身も心も大変な思いの毎日であるのはよく知っている。でも私は聞かずにはいられないのだ。なぜなら患者さんは、けっして楽しい場所ではない病院という場所に来てくれて、長い診察待ち時間を待たされて、私の言葉に少し戸惑いながら、それでも「元気でした」といってくれる…その笑顔が、私はとても好きだから。

 

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余談ではあるが、上沢投手はケガの手術後に自身のブログでこう記している「今回のことはプレー中に起きたことですし、ピッチャーをやっている以上仕方のないことだと思います。ソト選手(横浜DeNAベイスターズ)の打球は速すぎて見えませんでした笑」「それはソト選手が素晴らしい打者であると同時にそのような打者と対戦できることはピッチャーとして幸せです!これからリハビリ頑張ってまた1軍の舞台で投げれるように頑張ります!」ソト選手は実際にこの年セリーグ打撃・本塁打で2冠王となっている。本物は本物を知る…是非二人の再対戦を見たいものだ。

 

                                                        旭川リハビリテーション病院副院長

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