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ドクターKの独りごと22;原爆ドーム

「人生終わった…」

A君はそう吐き捨て、目を真っ赤にして壁を凝視し続けた。

「先生、おれ、このまま死ぬんですか?もしそうならなんもしなくていいですから。リハビリなんかやるだけ無駄なんっすよ」「生まれ変わったら、今度はもう少しましな人生送れるのかな?」

クモ膜下出血に倒れ、リハビリ目的で転院したA君。急性期病院から転院してくるなりいきなりそう吐露した。「俺の人生、最悪なんです。何やっても裏目に出て…運が悪いというか、なんかの力で悪くなるように仕組まれてるとしか思えない。だから先生、頑張ったって仕方がないんっすよ。やるだけ無駄なんっすよ」やるせない気持ちを延々と続けるA君。「無駄」「無理」「最悪」が彼の常套句だった。たしかに彼には家族もなく、正確には妻と子供がいたのだが今は絶縁状態で、頼れる親もなく、身元保証人の高齢の親戚は遠い地方に居て面会には来ない。無職だったので、職場の人間も来なければまともな友人もいない。どうしてこんな人生になってしまったんだろう?倒れる前までの彼の生活は酒とたばことネットが唯一の楽しみだったらしい。無精ひげとボサボサの髪型は病に倒れる前からである。リハビリを全くやる気のないA君は、日中でもカーテンを閉めたままベッドに横になり、リハビリの時間になっても起きあがろうともしない。

 

A君に知ってもらいたいことがある。

 

きみは自分に運がないというが、クモ膜下出血は退院までに30%の人は亡くなり、15%の人は寝たきりとなり、15%は車いす介助となる病気なのだ。そして自分の足だけで歩ける確率は…。

残念ながらすべての患者が元の生活に戻れるわけではない。急性期病院からリハビリ病院への転院は、脳卒中による障がいと向き合うために与えられた緩衝期間であるとさえ思うことがある。そのくらいこの時期は精神的に過酷なのだ。しかし障がいを受容し、身も心も現実を受け入れなければ次には進めない。だから、A君に知って欲しい。

この病院には主治医の許可のもと、朝の6時から朝食前までの90分、夕食後から消灯までの2時間、歩行練習目的でひたすら廊下を往復している患者がいる。廊下ですれ違っても、表情を変えず言葉も発せず、口をへの字にして視線をまっすぐ前に向けたまま、修行僧のように黙々と歩いている。夏でも冬でも、今日も昨日も、1年前も20年前も、私が入職したときからそういった患者は常にいるのだ。彼らは、彼女らは、自分の手足が元に戻らないことは知っている。元の生活に戻れないことも知っている。しかし、彼らはみな、何かを信じて、おそらくは厳しい現実への恐怖と対峙し困難に立ち向かうことを決意した自分を信じて、その決意を停めないように、そして自ら人生を停めないように、明日への希望を信じて歩かずにはいられないのだ。

 *  *  *  *

影絵作家、藤城清治の作品に「悲しくも美しい平和への遺産」と題した広島原爆ドームの作品がある。戦争で痛めつけられたもの。その中から湧き出してくる生きる喜び。生命の尊さ、美しさを表現したとのことだ。非情にも破壊された日常。しかし静かにたたずむ原爆ドームの姿に、藤城清治は強く輝く生命の光を感じる。厳しい現実を前にしても尚、作者は明日への希望を信じる姿を作品に表現している。1945年8月6日からそこの時計は止まっているとばかり思っていた。でもそれは違う。ドームは計り知れない悲しみを背負いながら今でもなお、我々に平和を、希望を、そして未来を世界に発信し続けている。

 

「先生、元気っすか?」診断書作成のために連絡してきた、電話の向こうのA君の声は明るかった。結局いじけたまま自宅に退院したA君は2年後の今、介護士になって施設で働いているという。足を引きずりながら働く彼は、施設の利用者たちからとてもかわいがわれているらしい。そして1度は別れた妻や娘とヨリを戻したというのだ。

 

彼はまだ、歩き続けている!

彼の声を聞きながら私は、いつの日だったか訪れた広島の、木漏れ日に光り輝く原爆ドームを思い出した。