マル・ウオルドロン。1957年から2年間、ジャズシンガーであるビリーホリデイの伴奏をしたことで有名なジャズピアニストだ。モールス信号のようにくり返す独特なメロデイ。控えめで哀愁漂うその旋律は多くの日本人の心を掴み、おそらく1970年代の日本ジャズ界隈で最も名の知れたピアニストの一人であろう。ビリ―ホリデイ作詞、マル・ウオルドロン作曲の「レフトアローン」は彼の代表作である。ビリーはこの曲を気に入り、ステージでもよく歌っていたそうだが、残念ながら彼女が歌った音源は存在しない。
ビリ―が病で逝った1960年、彼女を偲んで録音した哀悼曲「レフトアローン」。彼女以外にこの歌を歌える人はいないと思ったのだろう…マルは肉声の代わりにジャッキーマクリーン演奏のアルトサックスに歌わせたのだが、それがまたよかった。むせび泣くようなサックスの音色。マルは絶妙な間合いでサックスに寄り添うようにピアノを奏でている。出しゃばらず、一歩引いた立ち位置でジャッキーの魅力を引き出すことに徹している。そしてピアノアドリブでは…彼のピアノが泣いているのだ!こみ上げる嗚咽を抑え、冷静を保とうと必死にこらえているように聞こえるのはどうしてだろう?この歌詞は恋愛の歌だ。でも私にはそうは聞こえない。本当の歌詞はI am left alone:「(あなたが去って)私は一人ぼっち」なのだが、敢えてサックスが歌うことによってタイトルだけが前面に立ち、(She) left alone:「彼女は独りで去った」に聞こえてしまうのだ。
あのひとは1人で逝ってしまった
私はあなたにまだ何にも伝えていないのに
「ありがとう」の一言さえも… (注:筆者脚色)
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リハビリの病院とはいえ、当院で天寿を全うする患者さんも多い。薄れていく意識のなかで患者は我々に何かを伝えようとすることがある。それは必ずしも苦しいとか辛いだけではない。患者の表情が柔らかく、目が澄んでいるからだ。明鏡止水の心境とはこういうことなのか?我々はそうした状況で、患者の視線から目をそらさずに、患者の心をしっかりと受け止めているだろうか?患者の握った手を振り放そうとしていないだろうか?「明日伝えよう…」では間に合わないことも往々にしてあるのだ。
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いろいろ調べると、日本以外でこの曲はあまり有名ではないらしい。ビリーを失った悲しみからマルを救ったのは「レフトアローン」に共感し、寄り添い慈しんだ我々日本人なのかもしれない。
旭川リハビリテーション病院副院長