「赤とんぼ」について調べていくと驚くべきことがわかった。作詞の三木露風が幼少のとき離婚により生き別れとなった母「碧川かた(みどりかわかた)」さんのことである。
かたさんは離婚後、三木露風を祖父母に預け、露風の弟である乳飲み子を引き取り育てながら学校に通い、東京帝国大学病院の看護婦(師)となっている。彼女の人生はそこで終わらない。その後彼女は、日本初の婦人団体である新婦人協会に属し、女性の社会的自立や政治・社会への男女共同参画、婦人参政権運動などさまざまな女性解放運動に挺身したのだ。また、「足尾鉱毒事件」の救済活動や「米よこせ運動」「廃娼運動」「禁酒運動」「狂犬病撲滅運動」等多方面にわたって身を投じた。また、三木家とは家族ぐるみの付き合いをおこない、「かた」の実子の長男にあたる三木露風は碧川家からも尊重されていたようだ。実際、彼女の墓票には『赤とんぼの母 此処に眠る』と三木露風の染筆によって記されている。
明治・大正・昭和と3つの時代を奔走し、関東大震災、東京大空襲を生き抜き、戦前という世の中で女性解放や男女平等や命の重み,家族の大切さを説いた彼女の行動力。1962年に93歳(90歳との説もある)で永眠するまで時代に翻弄されることなく自らの「生」を生き抜いた彼女の生き方。ある意味凄みさえ感じる。
「山に野にしもべとなりて詩歌つくり あれし日本の人に尽くせよ」
詩人となった息子を励ます母「かた」が露風に送った手紙の一文である。くれぐれも健康に注意してとか、無理をしないで少しは体を休めなさい...ではない。日本を良くするために(仕事である歌をつくって)身を粉にして働きなさい!といったところだろうか…
あっぱれとしかいいようがない。
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年老いた夫が助からない病気となって入院したとき「じいさんは若いころ好き勝手やって楽しんだんだ。しょうがないのさ!」嫌だ嫌だという夫に対して大声でそう言い放った奥様。しかしそうは言いながらも毎日病院に通っては朝食を介助し、昼は夫の傍で手弁当を食し、「じいさんはわがままだから看護婦さんの迷惑になったら申し訳ない」と、夕食の介助をしてから消灯前まであれこれと世話をしてから帰路についた。歯磨きから下の世話まで手伝い、苦しいと弱音を吐く夫をしかりつけながら、背中をさすったりしていた。やることがないときはベッドのわきに硬い丸椅子を置いて過ごしていた。腰を悪くするからと勧めたクッション付き背もたれ椅子には「申し訳ないから....」と1度も座ることはなかった。そんな日々がいつまでも続くのかと思っていた矢先、ご主人は2回目の正月を病院で迎える直前に亡くなった。ご臨終のときも表情を崩すことなく、気丈にも「ありがとうございました」と深々と頭を下げていた。そして最後、病院を出るときにはじめて人前で見せた大粒の涙…
あっぱれとしかいいようがない。
旭川リハビリテーション病院副院長